Finding Davao 2009-01-29 ダイビング,小笠原
千と千尋 2009-01-26 ダイビング,自然言語,小笠原
I Talk to the Wind 2009-01-23 ダイビング,小笠原
否定されし者たち 2009-01-22 個人的な好み
変わった? 2009-01-20 ダイビング,個人的な好み
零点茶房 2009-01-19 ダイビング,自然言語
Curses 2009-01-18 個人的な好み
UFO 2009-01-17 ダイビング,小笠原
Astern 2009-01-15 資格試験
COLREGs 2009-01-13 小笠原,船
الزِئْبَق 2009-01-12 インドネシア語,タイ語,自然言語,اللغة العربية
兄姉/弟妹 2009-01-11 インドネシア語,タイ語,英語,自然言語,数学
肝心要の 2009-01-10 インドネシア語,個人的な好み,自然言語,数学
方法を教えるための詭弁 2009-01-08 ダイビング,個人的な好み,数学,旅行業
大きくなってからね 2009-01-06 個人的な好み,旅行業
赤黒ゲーム 2009-01-03 個人的な好み,振り込め詐欺,数学
浪費家ピーターラビット 2009-01-02 個人的な好み
デフォルト 2009-01-01 Web,個人的な好み


2009-01-29

Finding Davao

最近、ひょっとするとこんな物語があったのかもしれない。

---

あるところにヨウジウオのダバオ夫妻が居ました。

仲の良いダバオ夫妻は、新築のオーシャンビューのアザミサンゴを購入し、よし子供を作るぞと張り切っていました。一等地なので小さいアザミサンゴでしたが、環境は抜群です。

そんなある日、大地震が起きました。上空から出現した巨大な手で新築のアザミサンゴはまるごと掴まれ、バケツに入れられました。

数時間後、バケツから出されたアザミサンゴはもとの場所から遠く離れた場所にありました。

仲良くなったお隣さんもいなくなったし、水深も深くなったので眺めも悪くなってしまいました。

「こんなはずじゃなかった。このアザミサンゴを買うって、あなたが選んだのが最悪よ」と言い残して、ダバオ夫人はアザミサンゴを出て行ってしまいました。

あとにはダバオの旦那様が寂しく取り残されましたとさ。

---

今回の記事は意味不明。気にしないで。いちおう1/17のUFOの記事とは無関係ではない。

とにかく、海の生物はむやみに移動しないようにしましょうね。(笑)


2009-01-26

千と千尋

魚の名前としては、正確を期すためなるべく標準和名を使って欲しい。

でも、日本各地の独自の呼び名も無くなったら悲しい。

それに、生物オタクのダイバーでも、「タカサゴの群れすごかったあ」とは言うかもしれないが、実はニセタカサゴの群れだったり、両者が混ざってたり。そんな細かいことをいつも区別してたら変すぎると思う。

だから、標準和名に必要以上にとらわれないほうがいいのは確かだ。

小笠原で使われている、魚類の地方名に関する資料を見る機会があった。その資料から抜粋したのが以下のリストだ。標準和名 = 地方名 という形に整理しておいた。
注: S1 <= L, S2 <= L, ... で「種 S1, S2, ... は L と呼ばれ、逆に、 L と呼ばれるのは種 S1, S2, ... だけである」を表す。

--- 魚類の小笠原地方名

アオダイ = あおぜ
アオチビキ = こけぶり
アカハタ = あかば
アカマンボウ = まんだい
イソマグロ = いそんぼ
ウメイロ = {おきたかべ|ぼうた}
ウメイロモドキ = {うめいろ|たかべ}
キハダ = きめじ
ギンメダイ = てつびん
クサヤモロ = あおむろ
シマアジ(juv.) = ぬくもめ
シモフリハタ = おきあかば
シロダイ = ぎんだい
スマ = あいっぱら
タキベラ = かちょう
ツチホゼリ = もろこ
ツムブリ = いちもんじ
テンジクイサキ <= ささよ
ハナフエダイ = さくらだい
ハマダイ = おなが
ハマフエフキ = くちみだい
バラハタ = ちぎ
バラフエダイ = あか{だい|はな|ます}
ヒトミハタ <= がんもん
ヒラマサ = あおぶり
ヒレナガカンパチ = あかぶり
ビンナガ = とんぼ
ホウキハタ = はろう
ホウセキハタ = いす
ホオアカクチビ = しょなくち
マダラハタ <= がんもん
マハタ = かんなぎ
マルソウダ = そうだっぺ
ミナミイスズミ <= ささよ
メダイ = めだま

---

ウメイロは美味いがウメイロモドキはそうでもない。市場価値が全然違うので地方名も違う、ダイバーでは両者を区別している人のほうが稀だが。一方、ささよはいずれにせよあんまり美味しくないので細かく区別しない。など。

というわけで、魚に限らず、名前というものは重要だと思う。いろいろなものを反映した結果として、そう呼ばれているのだから。

実は私は、人のことをどう呼ぶかをとても重視している。たとえ「僕のことは○○と呼んでください」と言われたって、それは完全無視。その人が呼ばれたいようにはなかなか呼んであげない。どう呼ぶかは私の感覚が決めること。だって、とても重要だからね。(笑)


2009-01-23

I Talk to the Wind

(写真は本日のザトウクジラ。背景は父島の三日月山。)

ダイビングサービスのお店で、今日は写真談義になった。

クジラの尾の周りの水滴を止めたいので1/2000でシャッターを切った。その際、曇り空も考慮してISOを高感度にした、などなど。

そういえば。と、ダイビングに来た昔のお客さんの話題に移った。

何年か前に、泊まりがけで婿島列島に私も一緒に潜りに行った、カメラの大好きなお客さんが居た。彼はとても高価な中判カメラを持っていた。

そんなでかいカメラ、普通の35mmカメラと大して違わないんじゃない?と質問したら、彼はこう言い放った「風が写るんですよ」と。

私の安物カメラでも、水滴のおかげで "風が写った" か?それとも、やっぱり気のせい?(笑)


2009-01-22

否定されし者たち

今日のニュースによれば:

『よく眠らない人は、創造的に生きられない』

と、お偉い脳科学者がのたまわった、らしい。しょうもないので元記事へのポインタはワザと省略。

ダメですよ。

なにかの重要性をアピールしたいなら、否定的表現を使ってはいけない。プレゼンテーションの基本だ、そんなことは。

仮に、睡眠障害の人がいたとして、どう思うだろう。眠れなくてただでさえ苦しんでいるのに、おまえは創造的に生きられないしょうもない奴だといじめるわけかい。

同じ内容は、

もっと眠るともっと創造的になる

という肯定的表現でアピールしたほうが良いよ。

とりあえず私はこの茂木といういかがわしい男が前よりもっと嫌いになった。変なこと言って損したね。(笑)


2009-01-20

変わった?

きのう同じタイミングで潜った、父島の人が、ダイビングサービスのお店に遊びに来てた。サービスの人と彼と私とあーでもないこーでもないとムダばなし。

話題がふと途切れた。

そこで彼に言われた。「いとーさん、何か変わった」と。

何が?

小笠原にこんなに頻繁に来ているので、彼とも知り合って長いといえば長い。

自分でどこが変わったか考えてみた。確かに、いろいろ変わった。

たとえば、父島滞在中におがさわら丸が東京から到着すると、以前は誰を出迎えるでもないのに波止場へ行ってたが、もう用がないときは絶対行かない。だって挨拶が煩わしい。内地からの知人との偶然の出会いもなんだかとても面倒。

そのほかにもいろいろ。

おがさわら丸が東京へ向け出港する前夜の、ダイバーの打ち上げの宴会も大抵は一滴も呑まないでローテンション。

ボートをブイに留めてのダイビングだとみんなと一緒に潜らないでソロ活動。

この一年くらいで、私にとってのダイビングがすっかり個人的な遊びに変わってしまった。ガイドとかイントラとかそういうのの舞台裏がすごく分かってしまった、というのがたぶん大きい。知らぬが花だった。

そもそも、私は教えるのも教わるのも嫌いなのかもしれない。みんなと一緒なのが嫌いなのは確実だしな。

ガイドさんにも「いとーさん何かいいのいたら教えてください」って。言われなくても教えます、ってば。(笑)


2009-01-19

零点茶房

今日、ダイビングの後、ラーメン屋さんに行った。Galaxea 属のサンゴの話題になった。

私が「polyp の数は6の倍数だ」とかなんとか言ったとき、発音がポリープになっていたようで、「ポリプでしょ」と指摘された。発音した本人は英語のつもりだったからどっちのつもりでもなかった。(汗)

一つの単語 polyp が日本語としては、刺胞動物のときはポリプ、病変のときはポリープと区別されているのだ。

礼拝も、宗教によってはらいはいだったり、れいはいだったり。

零点は、テストの点数なられいてん、多項式とか測定器ならひょっとしてゼロてんかも。

区別しなくていいのに。しちゃってて煩わしいけど面白い。


2009-01-18

Curses

自分が誰かさんの影響を受けていた、と気付くことがある。よく考えると、自分の行動に合理性がなく、その誰かさんの好みに過ぎなかったり。

"自転車ならロードレーサーが好き(ランドナーは可だがマウンテンバイクはだめ)"

"ドアは次の人が近づいてたら支えて開けて待つ"

"料理を作るときニンニクはレシピにあっても省く"

"否定疑問文を避ける"

これらは例に過ぎない。他にもたくさん。

最後のに気がついたのは、今日。「コーヒーいるひとー、手あげてー」「ミルク、砂糖、要らないひとー」と訊かれて、あ、否定疑問文だ、と身構えてしまったのだ。ミルクも砂糖も要らないんだから「ハーイ」なんだよな、と答えまでにタイムラグ。

日本語をはじめとする多くの言語が、『とても論理的な』次の規則に従う (ただし、ここでいう多くの言語に英語は含まれない)。

文法規則:否定疑問文には「否定の語を含んだ文」で答える。

この規則が有名だといいんだけど、英語で頭をフォーマットされてる人には非論理的な規則なんだろうな。答え方が『逆』とかいう変な理屈つけて覚えてる人も居るし。

念のため上記の例で説明しておくと、「ハーイ」「イーエ」という答えをそれぞれフルに書けば、
はい、要りません
いいえ、要ります
となる。どちらの場合も、文に否定の語が入っている。

ちなみに、インドネシア語やタイ語は日本語と一緒。向こうの人が英語の否定疑問文にうろたえて答えるのも、日本人と一緒。

だから、私は人には否定疑問文を投げかけられない。かけられないのは、私にかけられた呪い。(笑)


2009-01-17

UFO

Unidentified Fish Object と呼ぶことにした。

小笠原に滞在中だ。何だかヨウジウオ系がすごいことになっている。約20年前の撮影経緯不明の謎めいた写真があって、それが発端。謎の写真は、それを最近手に入れたO.M.さんに、既にそっと見せて貰っていた。

その写真の魚が居たのだ。

少し前に、O.M. 氏がまず発見。居たぞという話は彼からメールで来島前に知らされていた。彼にとっては父島でダイビングの仕事を始めてから約17年間、すぐそばにいながら知らなかった魚なわけで、めちゃくちゃ嬉しそうなメールだった。私は内地に居たのでそのときはクールに返事書いちゃったけど。実は、私もその謎にはかなりチャレンジしてたから、先を越されてひがんでた。(笑)

O.M.氏が学者さんにそのUFOの写真の判定を依頼したら、なんと学者さんも大興奮。大変だ。

別個体も必要なので、O.M.氏と2人で捜索に出かけた。2人で、とは言っても水中ではもちろんバラバラ。で、私は発見!わーい。海から上がって、彼に報告しようとしたら、なんと同時に別の場所で彼も発見してた!

で、さっき、彼のヨウジウオを見に行ったんだけど、さらに大変なことが判明。彼のは、私が見つけたヨウジウオと全然違う。学者さんに送った彼の写真を見せてもらったときにも、何か違う感じはしてたんだけど、実物を見ないと確信は持てなかった。

私が見つけたやつはいったい何?人の見つけた魚で、水中でこんなにうろたえたのは始めてだ。(笑)

UFOが増えてしまった。只今、判定中。結果がでるまでには、時間がかかりそうだ。

1/21付記:判定がでました。2種は Bulbonaricus davaoensis (和名なし) と B. brauni (標準和名チンヨウジウオ) でした。詳しい説明と写真はURASHIMANのページをどうぞ。


2009-01-15

Astern

以前、大型特殊自動車の免許を取った。その時の教習車はフォークリフトで後輪操向だった。

と、人に話したら、「バックの時はハンドルどっちに切るんですか?」と訊かれた。確かに、乗ったことなければ混乱しがちかも。

結論は、前輪操向と一緒、つまり普通車と一緒だ。

その理由も簡単: --- 説明のため、すでにどちらかにハンドルが切れてるとする。ハンドルはそのままで、前進してみたら右に曲がった (ここで「左に曲がった」でも以下の説明は不変)。ではハンドルはそのままで、バックするとどうなるだろう?車輪が路面に描く弧は、前進時でもバックの時でも同じ円上にあり、辿る向きが違うだけ。 ---

車輪が辿る円を調節するのがハンドルだ。右、左に曲がるためだけの輪っかと思ったら失礼だ。(笑)

「バックの時は後ろをしっかり見て、左に行きたい時は右にハンドルを回す」と、言葉で 右/左 を覚えていてはいけない、というか、それで運転できてる人が私には怖い。自分が前を向いた時の向かって右は、自分が後ろを向いた時の向かって左なのだよ。

---

実は、私は「けん引」の免許も持っている。でも、ぜんぜん使ってない。

セミトレーラでよく言われるのが、「バックの時は普通と逆にハンドルを切る」ということだろう。フルトレーラなら「逆の逆で普通と同じ」と言う人も居た。

そんなのだめ。説明になってない。

頭 (トレーラ) と荷物 (トラクタ) を繋げた時、トレーラ全体がトラクタの操向輪だ。トレーラの向きを変えれば、トラクタの後輪の辿る円が変わる。ただし、トレーラとトラクタは一点で繋がってるだけだから、普通の車の操向輪とボディの関係とは違う。たとえば「据え切り」に相当することはできないし、「操向輪を直角にする」 (ジャックナイフ) ができてしまう。どっちもやっちゃだめだが。

トラクタの後輪は動きにくいので、バックの時はよく見ながら押さないと「勝手に操向輪の方向が変わる」ことになりかねない。運転手がサーボ役をする必要がある。

と、これだけわかってれば、逆に切るとかいう変な説明は要らない。操向輪としてのトレーラをどういう向きに向ければよいか、そのためにはハンドルをどう切ればいいか。見て、考えて。それだけのことだ。

右とか左とか逆とか、言葉で覚えない。平面図形の問題だと思うな。

---

もうすぐ父島に到着。この blog、しばらくは携帯からの投稿になります。


2009-01-13

COLREGs

前から微妙に気になっていたのが海上衝突予防法という法律の次の部分の内容だ。

(帆船)
第12条 2隻の帆船が互いに接近し、衝突するおそれがある場合における帆船の航法は、次の各号に定めるところによる。…(中略)…
1.2隻の帆船の風を受けるげんが異なる場合は、左げんに風を受ける帆船は、右げんに風を受ける帆船の進路を避けなければならない。
2.2隻の帆船の風を受けるげんが同じである場合は、風上の帆船は、風下の帆船の進路を避けなければならない。
3.左げんに風を受ける帆船は、風上に他の帆船を見る場合において、当該他の帆船の風を受けるげんが左げんであるか右げんであるかを確かめることができないときは、当該他の帆船の進路を避けなければならない。


海上衝突予防法が基にした国際法にも全く同じ条文がある。これは国際的な約束事なのだ。

ルール1と2は排他的状況であり、衝突するおそれがある場合にはどちらかに必ず当てはまる。ルール1も2も基本ポリシーは同じで、「舵の効きやすい船が進路を譲る」という思いやりだ。 ルール1の方はそう思えないかもしれないが、昔の船は右利きの人が操船しやすいように右げん (starboard = steer+board) に舵板があったため、右げんに傾いている船のほうが舵が効きやすかった 。

気になっていたのはルール3。「当該他の帆船の風を受けるげんが左げんであるか右げんであるかを確かめることができない」というのはどういう状況だろう?なぜこんな規定があるのだろう?

実は簡単なことだった。まっすぐ風上やその近くの向きへ進める帆船は物理的に存在しないのだから、「当該他の帆船」がほぼ真後ろから風を受けている状況しか「風を受けるげんが左げんであるか右げんであるかを確かめることができない」ことはありえない。この状況なら、帆が進行方向とほぼ平行にピンとはっていたり、進行方向とほぼ垂直だったり、複数の帆を左右のげんに開いていたりと、どっち開きなのかを「確かめることができない」ことが大いにありうる。

というわけで、ルール3で「左げんに風を受ける帆船」は、よくわからない相手が左げん開きならルール2によりその必要はないにもかかわらす、相手が右げん開きである可能性を考慮して、避けなければならない。そういう規定だったのだ。

納得した。

すると、こっちがほぼ真後ろから風を受けている状況では、

a. 相手が右げん開きなら、避けなければならない
b. 相手が左げん開きなら、右げん開きに jibe してしまえば避ける必要はない

(b. で、左げん開きに jibe したら避けなければならなくなる。この場合、どっち開きか分からずに相手も避けてくれちゃうかもしれない)

そういうことだったんだ。知らなかったよー。

---
付記:明日のおがさわら丸で、父島へバイクを取りに行きます。いつ帰ってこようかな。(笑)

未来へのリンク:2009年2月17日に関連する話題を書きました。


2009-01-12

الزِئْبَق



『astronomy ではダメだが astrology なら食える』と言った人がいたらしい。私はいつも、天文学と占星術に相当する英単語は逆なんじゃないかと混乱する。日本語の「豆腐」と「納豆」という単語もそんな感じだが、混乱はしてないけどね。

今回の記事のネタは、タイ語の何曜とか何月とかいう単語が、天文学 (占星術?) と関係があるという話。

これだけではよく知られている話なのでわざわざ取り上げるほどの内容ではない。そこでおまけとして、インドネシア語(マレーシア語)の何曜という単語の由来も書いてしまうことにする。

必要なフォントがインストールされてない環境では、今回の記事はまったく読めない。でも、私には書けちゃったので気にしないことにする。

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タイ語の曜名は、日本語などと同様、太陽系の星名に由来する。タイ語の星名の語源はサンスクリット語だ。

下は、タイ語 音写表記のサンスクリット語 日本語 という形のリストだ。

อาทิตย์ āditya 太陽
จันทร์ candra 月
อังคาร aṃgāra 火星
พุธ budha 水星
พฤหัส bṛhaspati 木星
ศุกร์ śukra 金星
เสาร์ saura 土星

天体としての太陽ではなく日曜日であることをはっきり示したいなら、「一日」を表す วัน の修飾語として วันอาทิตย์ のように用いる。他の曜日についても同様だ。

私にはタイ語の曜名を直接覚えるより、サンスクリット語で覚えてしまったほうが早いように思える。木星だけ 主 (人) を意味する語尾 -pati がカットされているが、あとはほぼ機械的に変換できる。もちろん、タイ語とサンスクリット語の綴り字の対応規則を知っているのが前提だ。

サンスクリット語では、それぞれの天体に「意味付け」があり、各単語はその意味でも用いられる。

太陽 太陽神 ya の子
月 光り輝くもの
火星 幸せ、繁栄、戦い、焼き尽くすもの
水星 賢い、理解力のある (仏陀 buddha と同根)
木星 祈祷の主、神々の師匠
金星 輝く、明るい、悪魔の師匠
土星 ゆっくり動くもの

なんだか占いじみてきた…でしょ。

でも、そもそも日本語(中国語)で惑星の名に火、水、木、金、土と付いているのはそれらのエレメントで世界がすべて成立しているとする五行思想の影響であり、それは占いみたいなものだ。

また、まだ日本に七曜の概念が無い大昔に1週間を7日とする方法が輸入されたのだが、そのときは7日周期で1日を太陽系の1星と結びつける占星術としてだった。そういうわけで、日本では曜名として星の日本名が流用され、日曜、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜となっているのだ。(参考:Wikipedia 日本語版「曜日」の項)

占星術と五行思想のミックス…。占いって重要みたいだ。

ちなみに、 Wikipedia の上記ページによれば、曜の順「日月火水木金土」は、星を当時の定説 (プトレマイオス等が提唱) での『遠い』順に「土木火日金水月」に並べた上で1時間ごとに次の星に動く (最後の次は最初に戻る) と考えれば、「土」の24時間後が「日」、「日」の24時間後が「月」、…となるから、だそうだ。(汗)

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タイ語で、何月、という月名は、占星術で出てくる黄道十二宮に由来する。語源は、やはりサンスクリット語。

下は、タイ語の月名 星座名 音写表記のサンスクリット語 日本語の月名 星座名 中国語(?)の星座名  という形のリストだ。

เมษา ราศีเมษ meṣa 4月 おひつじ座 白羊宮
พฤษภา ราศีพฤษภ vṛṣan 5月 おうし座 金牛宮
มิถุนา ราศีเมถุน mithuna 6月 ふたご座 双子宮
กรกฎา ราศีกรกฎ karkaṭa 7月 かに座 巨蟹宮
สิงหา ราศีสิงห์ siṃha 8月 しし座 獅子宮
กันยา ราศีกันย์ kanyā 9月 おとめ座 室女宮
ตุลา ราศีตุลย์ tulā 10月 てんびん座 天秤宮
พฤศจิกา ราศีพิจิก vṛścika 11月 さそり座 天蠍宮
ธันวา ราศีธนู dhanvin 12月 いて座 人馬宮
มกรา ราศีมังกร makara 1月 やぎ座 摩羯宮
กุมภา ราศีกุมภ์ kumbha 2月 みずがめ座 宝瓶宮
มีนา ราศีมีน mīna 3月 うお座 双魚宮

ราศี は星座という意味だ。

月名であることをはっきりさせたいのなら、その月の日数を30日と比べ 大きい / 等しい / 小さい に応じて語尾に คม / ยน / พันธ์ を付ければ良い。例えば1月なら มกราคม だ。また、例えば、占星術でいうおひつじ座の期間 (タイでは流派によって3月21日〜4月19日だったり4月14日〜5月14日だったりするらしい) と4月1日〜30日の期間とは完全には一致しないが、タイ語では4月を表すのにおひつじ座に由来する単語を使ってしまっている。混乱しないように注意しよう。(笑)

月名もタイ語でいきなり覚えるのは大変すぎる。サンスクリット語の綴り字とはほとんど対応しているので、やはり、サンスクリット語のほうから覚えた方がいいと思う。急がば回れ。でも、タイ語の単語が仮に正しく綴れても、一字再読とかルールがいろいろあるから、発音が出来るかどうかはまた別問題で難しいんだが。

中国語での「摩羯」 (まかつ) は makara の音写だ。もともと makara はヤギなんかじゃない怪しい想像上の動物なので、中国人はあえて訳さなかったらしい。うお座も占星術の絵を見ると必ず2匹が逆向きに並べてあるので「双魚」。いて座だってケンタウルスみたいなやつ(インドとギリシャとどっちが先かは知らない)だから普通名詞の射手では失礼だ、というわけで「人馬」なんじゃないのかな。

完全に占いになってしまった。(汗)

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最後に、インドネシア語(マレーシア語)の曜名。語源はアラビア語。

下は、インドネシア語 日本語 アラビア語の意味 アラビア語の読み方(正確じゃないからね) アラビア語 という形のリストだ。

Ahad 日曜 1 わーひどぅん واحِدٌ
Senin 月曜 2 いすなーん اِثْنان
Selasa 火曜 3 さらーさ ثَلاث
Rabu 水曜 4 あるばっあ أرْبَع
Kamis 木曜 5 かむす غَمْسٌ
Jumat 金曜 (礼拝のために) 集まる じゅまっと جُمْعة
Sabtu 土曜 7 さぶっあとぅ سَبْعةُ

曜日であることをはっきり示したいなら、「一日」をあらわす hari の修飾語として用いればよいのは、タイ語と同じ。また、日曜日は hari Minggu という別の語の方が普通だが、これだけはアラビア語とは関係ない。

何人かのインドネシア人に訊いてみたけど、語源がアラビア語の数詞だなんて誰も知らなかった。Sabtu の語源のアラビア語 (たぶんヘブライ語も?) の単語 سَبْعةُ は、英語の sabbatical の語源でもある。どこかの世界を作った神様は7日目はサボったんじゃなかったっけ。

でも、インドネシア語の曜名を覚えるのにまずアラビア語からというのは、たぶん遠回りしすぎ。


2009-01-11

兄姉/弟妹

偉い学者が編纂した辞書なのだから誤りは皆無かというと、そんなことはなかったりする。特に、マイナーな言語(学習しようと思う人が少ない言語)の辞書でその傾向は顕著だ。

昨日の記事で、谷口五郎氏のインドネシア語辞書の hati の項に誤りがあるという話を書いた。この辞書には誤りが多いのだが、一番最初に気づいたのは kakak という単語の説明に

(誤)"kakak 姉"

と書いてある箇所でだった。 kakak に対立する語は adik なのだが、谷口辞書では

(正)"adik 弟または妹"

とあり、 こっちは正しい。したがって kakak も

(正)"kakak 兄または姉"

が正しい。英語の brother (兄または弟) 、sister (姉または妹) とは 兄弟/姉妹 関係の切り口が直交している。日本人は中学入学以来、頭脳の外国語部分を英語でフォーマットされてしまっているため、混乱しがち。慣れればどっちにせよ同じ程度の不便さで済むようになる。(笑)

(あとでタイ語の話をするので:タイ語とインドネシア語は同じ 兄姉/弟妹 という切り口だ。)

これらの言語でも、もっと細かく、たとえば「兄」だけを指すことができる。英語では複合語にして elder brother (年上の brother)と表現すればいいし、インドネシア語でも kakak laki-laki (男の kakak) でいい。物事をおおまかに切っても、不足している属性を補う修飾語を付加することで細分化が可能なのだ。

ただし、もともと物事をおおまかに切ってあるのを他の外国語に翻訳しようとすると、困難な場合がある。一例を挙げよう:
--- Harry Potter シリーズにインド系(?)の双子の姉妹が登場する。 "her twin sister" という描写は日本語へ翻訳困難だ。なぜなら「彼女の双子の姉」か「彼女の双子の妹」という風に、年上か年下かが分からないと翻訳できないからだ。そこで、日本語版翻訳者の松岡氏は原作者に問い合わせたそうだ。しかし、英語話者は双子(や三つ子などなど)のメンバーには年上も年下も無いと認識しているため「はあっ?」という答えが返って来たそうだ。しょうがないので、日本語版では勝手に上下をつけて訳出したらしい。今、手元に本がないので詳細を確認できないが。---

ここまで読んだ時点で、ひょっとすると、日本語は概念が細かく切ってあって「便利だ」あるいは「非論理的だ」と思ったかもしれない。しかし、ある一つの言語を、便利とか非論理的とか言うのは完全に間違っている。それは、ある特定の言語(英語の場合が多い)より細かく切ってある場合に「非論理的」、広く切ってあるときに「英語は論理的」などという根拠の全くない言いがかりをつけているだけだ。

それでは、日本語よりももっと細かく切られている一例を挙げよう。中国語(日本語にも漢字熟語として借用)での例だ:日本語の おじ/おば は親の brother/sister を表す言葉だが、漢字で表現する際には、 kakak の場合は「伯」を用いて 伯父/伯母、 adik の場合は「叔」を用いて 叔父/叔母 と細分化される。

---

中国語の上のプロセスは、いったん おじ/おば をそれぞれ 父/母 と同一視した後に 伯/叔 で細分化して特定する、というものだ。 伯/叔 は「被修飾語をいったん抽象化してから細分化する」、めんどくさい修飾語と言える。あるいは、 父/母 という字自体が おじ/おば をも含む広い意味範囲を本来持っており、修飾語が無いデフォルトでは特に ちち/はは を表す、と考えても結果は同じだ。

そういえばタイ語で、上の 伯/叔 と同じような現象に出くわした。

手元のタイ語-日本語辞書やタイ語会話集などには

เขย 親族の婿
สะใภ้ 親族の嫁

と書いてある。しかし、同じ辞書や会話集の用例を参照する限りではそのようには訳されておらず、たとえば、 P เขย は全て「P の婿」と訳されている:

พี่เขย 実姉の婿
(ただし、 พี่ は狭義で「実兄または実姉」の意味。だから、機械的に P の婿という訳を適用すると「{実兄または実姉} の婿」となるが、実兄は婿をとらない。)

という具合だ。けっして「親族の婿の {実兄または実姉}」とは訳されていない

タイ語の語順は 被修飾語+修飾語 なので、 P เขย をいきなり「P の婿」と訳すのは正しいにしろ納得しがたいものがある。

実は、ここに、上述の 伯/叔 と似たプロセスがあると思われる:指し示したい (義理の) 縁者 X をいったん X の配偶者 (この人には血縁関係を表す語 P が狭義で既にある) と同一視した後、「P の婿」「P の嫁」という形で属性を付加し細分化して提示する。そういうめんどくさい修飾語なのだ。あるいは、血縁関係を表す語 P は(特に、その配偶者 X を直接あらわす語がない場合には)広い意味範囲を本来持っており、修飾語が無いデフォルトでは特に血縁関係のある方を表す、と考えても結果は同じだ。

[余談:タイで地元の先生に習った時、この点はとても混乱した。先生の説明ではこれらの単語の意味は「義理の P」 (P เขย が「妻の P」、 P สะใภ้ が「夫の P」) だった。先生とのコミュニケーションが英語とタイ語の併用だったから、ちゃんと説明されたのに誤解したという可能性もなきにしもあらず。でも、その意味だとすると辞書の用例の訳とくい違うと、ちゃんと質問したんだけど。おそらく、英語話者向けにアレンジされた教材と教育方式だったから、説明や訳語が相当歪んでいたというのが真相だろう。それとも、チェンマイ方言ではそういう意味なのか?]

男女を区別しない พี่ をイメージしながら、まとめよう。 พี่ (広義) を細分化する際、タイ語ではインドネシア語流の

m. 男の
f. 女の

という2分割は採用せず、

m1. 男の(血縁関係のある場合に用いる)
m2. 男の(血縁関係のある女との婚姻によって関係の生じた場合に用いる)
f1. 女の(血縁関係のある場合に用いる)
f2. 女の(血縁関係のある男との婚姻によって関係の生じた場合に用いる)

という4分割にした、ということ。

ただし、義兄を広い意味では「兄」と言ってしまっても嘘にはならないのと同様、m1 で m2 (f1 で f2)を指してもいいようだが。

2009-01-10

肝心要の

きっかけは次のニュースだった:

[カイロ 8日 ロイター] エジプトの考古学者らが紀元前24世紀にエジプトを支配した王の母親、シェシェティ女王とみられるミイラの一部を発見した。エジプト政府が8日、明らかにした。(ロイター)

「シェシェティって誰?」と調べ始めてしまった。で、Wikipedia の「ミイラ」の項を見て、女王の名前なんかどうでもよくなってしまうような面白い記述を、古代エジプトのミイラの作り方の箇所に発見:

… 内臓の摘出には開腹手術をおこなったが、脳の場合には頭蓋骨を開かず、鼻から鉤状の器具を挿入して取り出したらしい。現代人からすれば脳を崩してしまうことは復活の条件を失わせることのように感じられるが、理性の宿る場所を脳と見做さなかった当時においては死後身体から離れた魂にこそ霊性が宿るとの観念に立てば、心理的抵抗は無かったと考えられる。古代エジプト文明においては、脳は鼻水を作る為だけの器官と考えられ、捨てられていた。むしろ心臓が理性の場と考えられたため、これは取り出さず死体に残された。… (Wikipedia 日本語版「ミイラ」より)

最近、鼻水が止まらないのだが、脳が活発に働いていたのか。(笑)

理性の場が脳であるという認識は、昔の人々には無かった。それは古代エジプト人に限らず、例えば、古代ギリシャ人は横隔膜にこそ理性が宿ると思っていた(「カリフォルニア時間」さんに詳細な記述があるのを発見)。

一方、古代のインドネシア(マレーシア)あたりの人々は、たぶん肝臓に理性の場があると思っていた。以下は、その説明で、論拠はインドネシア語の単語 hati。 この名詞にはいろいろな意味があって、KBBI 第3版には

hati n. 1. Anat. organ badan yg berwarna kemerah-merahan di bagian kanan atas rongga perut, gunanya untuk mengambil sari-sari makanan di dl darah dan menghasilkan empedu; 2. daging dr hati sbg bahan makanan (terutama hati dr binatang sembelihan); 3. jantung; 4. sesuatu yg ada di dl tubuh manusia yg dianggap sbg tempat segala perasaan batin dan tempat menyimpan pengertian (perasaan dsb); 5. apa yg terasa dalam batin; 6. sifat (tabiat) batin manusia; 7. bagian yg di dalam sekali (tt buah, batang, tumbuhan, dsb);

とある。用例が豊富に付いていたがばっさり省略。上の文を日本語に翻訳すると、

hati 名 1. 解剖学用語 腹腔右上部の赤みがかった臓器で, 血液中の栄養分を集めたり胆汁を分泌したりする; 2. 料理の材料としての肝臓の可食部 (特に屠殺したての動物の肝臓); 3. 心臓; 4. 人間の体の中のある一部分で, 全ての感情と意識 (感覚など) とを掌ると見なされている場所; 5. 心の中に感じるところのもの; 6. 人の心の性質 (あるいは性格); 7. (果物や茎や植物などに関して) とても奥にある部位;

のような感じ。いいかげんに訳したので、間違ってても知らない。日常生活での使用頻度では、 1 と 3 の意味で使われることは少なめで、2 と 5 と 6 はとても多めかな。 5 から派生した語 hati-hati も頻繁に使われ、例えば "Hati-hati, ada hantu" なら「お化けに気を付けてね」だ。

上述の通り、 hati には「肝臓」と「心臓」という全く別の2つの意味がある。おそらく古い意味は肝臓の方で、当時は理性の場も肝臓と見なされていたはず。ところが後に、理性の場を心臓と見なす考えが輸入され、理性の移動に伴って場の名称も引っ越し、 hati は心臓も意味する事になった。ということだと思う。

横隔膜
肝臓
心臓


そこに理性が宿ると言われれば、たぶん、体のどの部位であってもそこにあるような気がするのだ。「頭を使って考えてるような気がする」のこそ、実は錯覚に他ならない。無用の知識が邪魔をしなければ、そんな「気がする」はずはない。という気がする。

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付記1: 「肝試し」とか「肝が小さい」などと言う時の、日本語の「きも」という単語が hati の 3 以外の意味範囲をぴったりカバーしている。日本語の古い形が残っていると言われる沖縄語で「ちむぢゅらさん(肝美らさん)」は「心が清い」の意味だ。何の事は無い、古代日本人も肝臓に理性が宿っていた。

付記2: 私が昔、インドネシア人に言葉を習いに行っていたころによく使っていた、故 谷口五郎編纂の「インドネシア語−日本語辞書」には hati の項に肝臓という意味が載っていない。このせいで、練習問題として出された文章の意味が分からずけっこう悩んだ。質問に対して、私の先生はインドネシア語と日本語を併用して一生懸命「肝臓」を説明してくださったのだが、その場では理解できなかったほどだ。理解できなかったのは、知識がある谷口五郎氏も同じだ。なぜなら、谷口辞書序文には KBBI の初版を参照した旨の記述がある(実際、用例と語義順はほとんどが KBBI のパクリ)にもかかわらず、 KBBI に「1. 肝臓」と書いてあるのをわざわざ訂正して「1. 心臓」としているのだから。

2009-01-08

方法を教えるための詭弁

あたりまえのことだが、

キュウリを作る方法を教える人が、おいしいキュウリである必要はない。

何をわけのわかんないこと言ってるんだ、と思うだろう。でも、「キュウリ」「おいしい」などをいろいろ置き換えてみる。

「数学が得意な子供を育てる方法を教える人が、数学者である必要はない」

「ウズベキスタンへ行く方法を教える人が、ウズベキスタンに行ったことがある必要はない」

「ダイバーを作る方法を教える人が、上手なダイバーである必要はない」

過激な文章しか思いつかない。でも、置き換えて文章を作る方法を教える人が、うまい文章を作る必要はない。

今日の記事は、この blog では日常茶飯事の意味不明なエントリでした。


2009-01-06

大きくなってからね

今日のニュースから:

【1月6日 AFP】ドイツ北部 Hanover で2008年12月31日、6歳と7歳のカップルがアフリカに駆け落ちしようとしていたと、地元警察が5日発表した。広報担当によると、このカップルは Mika 君と Anna-Lena ちゃんで「非常に愛し合うあまり、暖かいアフリカで結婚することに決めた。 Anna-Lena ちゃんの妹(5歳)も証人になって貰うため連れて行った」という。…(中略)… 中央駅で空港行きの電車を待っている3人を警備員が見とがめ、通報で駆けつけた警察が保護した。お金も航空券も所持していなかったという。警察の広報担当は「もう少し大きくなって、実行したらいいさ」と語った。(c)AFP

(注意:原文は私にはなんだか読みにくかったため、ごめんなさい、無断でいじったのが上の文章。原文(日本語)はここ。)

最後の警察のコメントがあまりにも素敵だったので、この blog にとりあげてしまった。ダメとは言わない、もうちょっとしたらやっていいからね、とは。

しかし、なぜ行き先がアフリカなのだろう? Wikipedia 英語版の Child marriage と Elopement (marriage) の項によれば早婚の習慣はアフリカの広い地域で存在する。そこでは子供の駆け落ちが時々あるそうだ、親同士が勝手に決めた相手を気に入るとは限らないので。そんなことをドイツの子供たちが知ってたかどうかは不明だが、知ってるわけがない、というのは日本ではそうだが、他の国/地域では必ずしもそうでないかもよ。

って、理由は「暖かい」だと引用記事中に明記されてるのに、深読みしすぎ?(笑)


2009-01-03

赤黒ゲーム

最近は流行ってないが、20年くらい前には「自己啓発セミナー」というのがいろいろあった。

大学生が仕送りの学費をこれの参加費として注ぎ込んでしまったとか、女の子とデートだと思い込んで待ち合わせ場所にいったら「プレセミナー」に連れて行かれたとか、私が知る限りでもいろんなトラブルがあった。企業の研修に使われ新入社員が強制的に参加させられたとか、封印されていた過去の忌まわしい記憶が全員の前で強制的に暴露され精神病になったとかいう話も聞いた。

私の場合は当時、1ヶ月分のバイト代が盗難に遭い食うに困って、バイト先で「ねえねえ今月はピンチなんだ。来月どうにかするからおごって」と言っていたら同僚にプレセミナーに連れて行かれた。「Basic コースの代金11万円は貸す、セミナーに参加して価値が無かったら返してくれなくていい」とまで言われ、通いで3日間の Basic コースに参加したのだ。

自己啓発セミナーに関する詳しい情報と、その問題点に関しては Large Group Awareness Training のページで充分。本当にすばらしいページだ。

「ベトナム戦争に従軍し精神を病んだ人を社会復帰させるためのカウンセリングの手法を健常者に応用したのが自己啓発セミナー」というのを今まで信じていたが、上述のページによるとそれはフォークロアであり、真相は「マルチ商法の手口」なんだそうだ。そうだよね、私のように Basic コースだけで「セミナーの金儲け主義が腹立つ。内容も値段に比べてつまんない」と止めてしまう人は実際に少数派で、ほとんど全員がより高額な、泊まり込みの中級コースに引き続き参加したようだから。

昨日は、ある占いに関する記事を書いたが、一度はまると抜け出すのが困難なものは世の中に多い。引っかかる側の意志が強いとか弱いとか頭がいいとか悪いとかの問題ではなく、騙す側が金儲けに関してかなり巧妙な手口を使っているのだ。

上述のページにも記載がある「赤黒ゲーム」は、私が参加したときにもセミナー2日目のプログラムに含まれていた:

--- 赤黒ゲームの説明

ルール
◎ 参加者全員(約100名)は半数ずつの A チーム、 B チームに分かれる。ゲーム開始前に(必要ならばゲーム途中でも)、チームごとの別室で、戦略を議論するための短い時間が与えられる
◎ ゲームは全部で6回戦。1回の対戦はそれぞれのチームが赤または黒のカードを1枚出すことで行われ、その組合せでチームの得点が決まる(ただし、3回戦目の得点は2倍に、6回戦目の得点は3倍に計算する):
赤赤のとき、両者とも-3点
赤黒のとき、赤を出したチームは+5点、黒を出したチームは-5点
黒黒のとき、両者とも+3点

達成すべきゴール
蓄積した合計点を最大にして勝つこと

--- 説明おわり

こんなゲームは、ルールと達成すべきゴールの説明を受けた瞬間に「両チームとも全部黒にすりゃいいじゃん」って分かるくらい底が浅い。実際、私がこのゲームをやったときには、他方のチームにもそう分かってる人が1人だけ居た、とあとで聞いた。だから、結果的に両チーム全部黒となった。担当のトレーナー(セミナーの司会者/進行係)は「こんなにうまくいったのはいままでで初めてです」と言ってたけど、本当かなあ。簡単すぎるよ。

いまから考えると、私にはセミナーのマルチ商法的側面がうすうす分かっていたから、「全部黒」が要求されていると分かったんだろう。なにしろ、マルチ商法(赤しか出さないチーム)を信じて引っかかる(黒ばかり出す)人を養成してるセミナーなのだから。他の参加者には、「いままでそういう『両者が勝つ』という考え方をしたことがありませんでした。ありがとうございます」と戦略提案者の私があとで個人的に感謝されたり、「セミナーで行われたゲームの中で赤黒ゲームが一番価値があった」という人がいたり。なんだかなあ、そんなもんなの?と、当時も思った。

赤黒ゲームのチーム分けの際には、自己啓発セミナーの運営側も「なるべくうまくいく」ように、分かりそうな人をAチーム、Bチームに分散させるようにしている、というのもあとで知った。今ごろ言ってもしょうがないが、私をそう認めていただけたようで、たいへんに光栄です。(笑)

まあ、Basic セミナー参加費と、プレセミナーに連れて行かれた時の夕飯一食分とが無料だったにしては、暇つぶしになった。でも、そもそも商品の「価値」というものは「価値がある」「価値がない」の2通りだけではなく、「払うお金に見合ってると思えるかどうか」じゃないのかな?

私は赤も黒も出さない。こんな「価値がないにほぼ等しい」ゲームへの参加自体、拒否だね。

2009-01-02

浪費家ピーターラビット

友人と話していたら占いの話になった。何をするにも六〇占〇に従う、という人が身近にいるそうだ。「各種占術の説明」というサイトが参考になるかも、と言っておいた。以毒制毒。

面白いので、別の知りあいの C さんに関して、この〇星〇術で占ってみた。占い自体は生年月日と性別を引数とする単純計算なので、携帯の公式サイトに有料会員登録する必要はない。計算に必要な情報はネット上を探せば見つかる(上述のサイトにもある)ので、本なんか買わない。

C さんは、2004年7月7日生まれの男で、2007年2月中旬に大病を患っている。

--- C さんの「運勢」の計算結果
2004年7月7日生(火星+)
運命星
「自分自身の世界持つ。なかなか人を信用しない。寂しがりや。わがままに見えることも」
家庭・結婚運
「運気がよい時に時期を誤らず結婚すればうまくいく。比較的うまくいくかも」
金運
「衝動的にお金を使う。あればすべて使ってしまう」
宿命大殺界
「生まれてから今まで全ての期間」
--- ここまで計算結果

だいたい、あたってる。

特に「自分自身の世界持つ。なかなか人を信用しない。寂しがりや。わがままに見えることも」の部分がぴったり。病気を患ったのも、大殺界だからか?先祖の供養なんか考えてもいないようだし。

種明かし。 C さんは人間ではない。 C さんは ウ・サ・ギ

ウサギはウサギ。なかなか人を信用しないし、寂しがりやで、わがまま。だから、大当たり!(笑)

ちなみに、 C さんと同時に生まれたウサギの兄弟たちは、 "宿命大殺界" にもかかわらずまだ病気になってない。また、すべてのウサギのうち "火星+" の生まれは約12匹に1匹にすぎない。

(免責事項:占いを信じる、信じないは自己責任でお願いします。この記事は善良かつ中立の立場で書かれていますので、ある特定の占いを中傷あるいは推奨するものではありません。)

未来へのリンク:明日の記事がこの記事を参照しています。


2009-01-01

デフォルト

コンピュータの世界では「デフォルト」という言葉をよく使う。「何も設定を変更しないとき」「特別な操作を何もしないで単純に起動したとき」をデフォルトの状態という。まあ、厳密な意味で使われている専門用語じゃなくて日常語だけど。

昨日の記事で、キーボードに少し関連するようなことを書いた。

キーボードといえば。きっと同じことを感じている方が居られると思いネットを検索。あった。ぼちぼち散歩さん、私も全く同意見ですよ。

私は、普段は Mac を使っているので Windows はたまにしか使わない。自宅にもあるが、調子が悪いのを放置しているくらいだ。でも、出先でネットカフェに入れば、嫌でも Windows だ。

上述の「ぼちぼち散歩」に書いてあるが、最も苦痛なのが MS-IME (日本語入力)のデフォルトの設定。 [半角/全角 漢字] キーを押すと状態が押す回数で変化する、「トグル動作」というやつだ。

これが信じられないほど使い物にならない。いまどういう状態にいるか(日本語入力モードなのか、ダイレクトなのか)が、入力してみるかツールバーまで視線を動かすかしないとわからないなんて最悪。ユーザが、記憶能力に関する自信を完全に喪失するまでいじめるのが目的の設計に違いない。

というわけで、私はネットカフェであっても、まず、まよわず設定変更。トグル動作がデフォルトでなければ、この手間が要らないのにな。

「ユーザが設定変更すればいいんだからデフォルトなんかどうでもいい」と思う設計者がいたら、完全に間違っている。「そうですね。究極的にデフォルトを設定変更して、あなたの設計した OS を別の OS にするだけで解決しますからね。デフォルトなんかほんとどうでもいいですよね」と言おう。

そのままあるがままで、手をなにも加えないで使いやすい。これが重要だと思う。手を加えれば変更できるのは、コンピュータなんだからあたりまえのこと。ま、変更しやすい設計になっているかどうか、は大問題だが。

かつて、とある「お手軽 Web 制作ツール」を使ったことがある。が、今は捨てた。その理由の1つにデフォルトが腐っていたというのがある。ページを作るたびに「検索エンジンのロボットがクロールしない」がデフォルトだったのが絶対許せなかった。これは喩えるなら、炊飯器を買ったら、おかゆばかりが炊けてしまって、普通のご飯を炊くためには毎回いろんなボタンを何回も順番に押さないといけなかった、ということに相当する。

そういえば、「よろしければ」という言葉の類も嫌い。返答として「よろしい」がデフォルトで期待されており、変更の余地があるようでいてふつうは無いから。

でも、たとえば、喫煙者が私に「隣でタバコを吸っていいですか?」なんて訊いたら「ご遠慮ください」って答えちゃう。吸いたいなら黙って吸えばいいじゃん、と思う。私は、試しに断ってみちゃうけど、どうせ不快に思うんでしょ?だったらきくな。

このあいだは、誰かに「よろしければ〇〇を教えてください」と言われたので、無視。よろしければ、ってことはよろしくなくてもかまわないのだろうから。教えるのは面倒なのでよろしくないということにしちゃった。

私はデフォルトでめちゃめちゃ不親切なのかもしれない…。