2009-03-18

二重基準

オウム真理教の教祖の再審請求が棄却された、というニュースにつられて、さっきまでネットのあちこちを見ていた。

直接の関連はないが、毎日新聞のインタビュー記事 (2009/1/28) で、森達也さんの話を読んだ。本当に、そのとおりだと思う:
 『A』を観た人から、「あなたの家族がサリンの被害者だったら映画を撮れましたか」と訊ねられたことがあります。あるいは『死刑』を刊行したあとには、「おまえの家族が誰かに殺されたとして、おまえはその誰かを死刑にするなと言えるのか」とか。こんな質問に対して僕は、「自分の家族が被害を受けていたら『A』など撮ってはいないだろうし、自分の家族がもし誰かに殺されたら、僕はその誰かを殺したいほどに憎むと思う」と答えます。この答えに対して、それはダブルスタンダードだと怒る人がいるけれど、でもダブルスタンダードは当たり前です。だって被害を受けたその瞬間に、僕は非当事者から当事者になるのだから。映画を撮ったり本を書いたりすることなどできない。加害者に報復したいとの感情に煽られて当然です。

 問題は非当事者が当事者の感覚を表層的に共有することです。非当事者には非当事者の感情があり役割がある。

 でも本当は、被害者や遺族の気持ちになれとの言葉に対しては、なれるはずがないと言い返すべきなんです。被害者や遺族の苦しみや悲しさを本当にリアルに想像することなど絶対にできない。

もう、6年くらい前になるが、ある人に私は「おまえはダブルスタンダードだ」と言われた。そうだけど、それが何か?

なれるはずがない
問題は非当事者が当事者の感覚を表層的に共有すること


そう断言してくれて、とても素敵。森さんの本、買って読まなきゃ。

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最近、この blog はコンピュータ関連の話題で重めだったので、今日は意味不明の軽い記事にしてみた。
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