インドネシア滞在中に、ジャワ島出身のダイブマスタといろんな話をしていた。彼はとても面白い男で、体型がドラえもんに似ているので、私はしばしば彼のことをそう呼んでいた。
ちなみに、インドネシアでも Doraemon は広く知られており、発音もそのまま。コミックスになったインドネシア語版ドラえもんを見た事があるが、副題が "Kucing Masa Depan" (「未来猫」の意味だが、直訳すると、「前方」の時代の猫)と付いていた記憶がある。そこで、一度、彼のことを Kucing Masa Depan と呼んでみた。さすがにこれはすぐには通じなかった。私が説明したら、彼は笑いながら「じゃあ彼は kucing masa belakang だね」(belakang は depan の反対語で、「後方」の意)といいながら、ちょうど近くを歩いていた猫を見た。そんな言葉ないってば。ただの kucing だってば。。。(爆)
多くのインドネシア人は母語と母国語が違う。たとえば彼の場合、母語(生まれた時から子供時代に家庭内で使われた言語)はジャワ語で、母国語(国家が、国民が共通に使うべきと定めた言語)はインドネシア語だ。実は、インドネシア人で母語をジャワ語とする人口は約半数も居るのに対し、インドネシア語を母語とする人はスマトラ島の Riau あたりにしかおらずはるかに少ない。インドネシア語はマラッカ海峡をはさんだマレー半島の言葉(マレーシア語)とほどんど同じで、ジャワ語とは全然ちがうのだ。
では、なぜ話者人口が第一位のジャワ語がインドネシアの「母国語」でないのか。それは、ジャワ語は日本語と同じく、複雑な敬語表現があり、母語話者以外には習得が比較的困難である、というのがおもな理由だ。インドネシアが第二次大戦後に独立するときに、国内のいろんな言語を比較して、最も習得が容易な言語を「母国語」にしたと聞いた。
つまり、多くのインドネシア人はバイリンガルなのだ。(ただし、細かいことを言うと、インドネシア語が教育や公式の場で用いられる副作用として絶滅に瀕しているマイナーな言語も国内に多く、聞くほうはわかるけど喋るほうはインドネシア語しかできない、あるいは、各言語独自の敬語が使えないような若い世代もだんだん増えつつある。)
そういう言語事情の人々なので、私のように、インドネシア語を学ぼうという人にはたいていはとても寛容で、間違いはきっちり指摘してくれるし、片言でこちらが喋ってもコミュニケーションをとろうと努力してくれることが多い。この言語は学ぶのが本当に楽しい。この点は、英語を母語とし、他言語の学習経験の全くない人たちにしばしば見受けられる態度と異なる(が、そういう無知傲慢なのが目立つから「しばしば」見受けられるような気がするだけかもしれない。いや、ぜひ気のせいであってほしい)。
というような話を、ドラえもんとしていた。自然と、話の流れがジャワ語の敬語表現がどういうものなのかということに移ったのだが、彼がまず例に挙げたのが、「入浴する」という単語。熱帯なので、「入浴する」といってもバスタブに湯を張ってつかる習慣はなく、「柄杓で水をすくって体にかける」に相当する。
ジャワ語では3つの単語がある。
siram (目上の人や客人などがご入浴なさる)
adus (自分、あるいは、自分との上下関係を意識しなくていい人が入浴する)
pakpung (子供が入浴する)
わー、覚えるのが大変だ。間違えたら失礼だし、子供に敬語つかっても変だ。その点、インドネシア語は簡単だね、っと今度は私が例を出した。
Saya mandi. (「私は入浴する」の意。「私」の部分は誰になっても mandi を使って失礼ではないし、変でもない)
Saya memandikan kuda. (「私は馬に水浴びさせる」の意。 me+mandi+kan で目的語 kuda を持てる他動詞になる)
すると、彼が即座にきり返した。
Saya dan kuda bersama mandi. (私と馬が一緒に水浴びする)
あははは。簡単だけど、奥が深いね。
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