2008-08-06

翻訳困難


12年くらい前、英語で書かれた、数学の専門書の翻訳を2人でやったことがある。

専門書なので内容の翻訳は簡単。文学的な表現なんか無い。

困難だったのが、かの有名な Knuth が著者たちに献じた1ページの序文。これだけで2週間は翻訳が滞った。英語としては意味が明瞭なのだが、Art という単語の微妙なニュアンスを日本語にうまく移せないのだ。共訳者は「だいたいでいいんじゃないの」と言うが、こういうところでは私は完全主義者になってしまう。ま、ねばったおかげで、12年前の私の、今よりずっとつたない英語力の割には良い翻訳だったと言えるのではないだろうか。

ちなみにこの専門書。ある1つの驚くべき事実の証明のために書かれたものだ。で、良くない。いちばんデリケートな部分の証明がわざと省略されている。よくあるんだよね、こういう数学の本。読者がどうせわからないと思って馬鹿にしているのだろうね。

ある言語から別の言語に表現を移す作業(翻訳)は、上であげたのはほんの一例で、困難な場合がある。

よく、「日本語は非論理的だ」と主張する人が例に挙げる文
『象は鼻が長い』
は英語へは翻訳困難だが、インドネシア語へなら簡単だ。
Gajahnya hidung panjang.
語順そのままで、単語を置き換えただけ。「象は」の「は」の微妙なニュアンスまで nya という接尾辞で完璧に翻訳されている。

また、美しい日本語を使う代表者、川端康成の「雪国」の出だし
『国境の長いトンネルを抜けると雪国だった』
もそう。英語へは困難、インドネシア語へはきわめて容易。
Terowongan panjang perbatasan dilewat situ negara salju.
これもほぼ単語を置き換えただけ(修飾語と被修飾語の語順だけ入れ替わっている)。

実は語学の一番の楽しさは、こういうのが翻訳なしに分かるようになることにあると思う。翻訳困難なものを、原語でそのまま理解できるのだから。

ちなみに、上記の数学の専門書。日本語訳の本はあちこちに配ったり売ったりしてしまったので、実は私の手元には1冊もない。出版元でも絶版だから私がもし手に入れようとしてももう手に入らない。でも、私には日本語訳はそもそも不要なんだから、手元に置いておこうとか手に入れようとか全然思わないのだ。笑

ところで、私の blog はわざと翻訳困難な文章で書くようにしている。専門用語だって解説なしに書き放題。「広い読者を獲得するため平易な表現を用い、万人が興味を持ちそうな話題を書く」というのももちろんできるけど、そんなのはみんながやってることだし、そもそも書いててつまんない。あえて真逆。分かる人にしか分からない仕掛けを文章の中に仕込むようにする。分からない人には意味不明でよい。

いったいどういう読者を想定しているのか?いいんですよ。それが私の Art なんだから。
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