2009-01-11

兄姉/弟妹

偉い学者が編纂した辞書なのだから誤りは皆無かというと、そんなことはなかったりする。特に、マイナーな言語(学習しようと思う人が少ない言語)の辞書でその傾向は顕著だ。

昨日の記事で、谷口五郎氏のインドネシア語辞書の hati の項に誤りがあるという話を書いた。この辞書には誤りが多いのだが、一番最初に気づいたのは kakak という単語の説明に

(誤)"kakak 姉"

と書いてある箇所でだった。 kakak に対立する語は adik なのだが、谷口辞書では

(正)"adik 弟または妹"

とあり、 こっちは正しい。したがって kakak も

(正)"kakak 兄または姉"

が正しい。英語の brother (兄または弟) 、sister (姉または妹) とは 兄弟/姉妹 関係の切り口が直交している。日本人は中学入学以来、頭脳の外国語部分を英語でフォーマットされてしまっているため、混乱しがち。慣れればどっちにせよ同じ程度の不便さで済むようになる。(笑)

(あとでタイ語の話をするので:タイ語とインドネシア語は同じ 兄姉/弟妹 という切り口だ。)

これらの言語でも、もっと細かく、たとえば「兄」だけを指すことができる。英語では複合語にして elder brother (年上の brother)と表現すればいいし、インドネシア語でも kakak laki-laki (男の kakak) でいい。物事をおおまかに切っても、不足している属性を補う修飾語を付加することで細分化が可能なのだ。

ただし、もともと物事をおおまかに切ってあるのを他の外国語に翻訳しようとすると、困難な場合がある。一例を挙げよう:
--- Harry Potter シリーズにインド系(?)の双子の姉妹が登場する。 "her twin sister" という描写は日本語へ翻訳困難だ。なぜなら「彼女の双子の姉」か「彼女の双子の妹」という風に、年上か年下かが分からないと翻訳できないからだ。そこで、日本語版翻訳者の松岡氏は原作者に問い合わせたそうだ。しかし、英語話者は双子(や三つ子などなど)のメンバーには年上も年下も無いと認識しているため「はあっ?」という答えが返って来たそうだ。しょうがないので、日本語版では勝手に上下をつけて訳出したらしい。今、手元に本がないので詳細を確認できないが。---

ここまで読んだ時点で、ひょっとすると、日本語は概念が細かく切ってあって「便利だ」あるいは「非論理的だ」と思ったかもしれない。しかし、ある一つの言語を、便利とか非論理的とか言うのは完全に間違っている。それは、ある特定の言語(英語の場合が多い)より細かく切ってある場合に「非論理的」、広く切ってあるときに「英語は論理的」などという根拠の全くない言いがかりをつけているだけだ。

それでは、日本語よりももっと細かく切られている一例を挙げよう。中国語(日本語にも漢字熟語として借用)での例だ:日本語の おじ/おば は親の brother/sister を表す言葉だが、漢字で表現する際には、 kakak の場合は「伯」を用いて 伯父/伯母、 adik の場合は「叔」を用いて 叔父/叔母 と細分化される。

---

中国語の上のプロセスは、いったん おじ/おば をそれぞれ 父/母 と同一視した後に 伯/叔 で細分化して特定する、というものだ。 伯/叔 は「被修飾語をいったん抽象化してから細分化する」、めんどくさい修飾語と言える。あるいは、 父/母 という字自体が おじ/おば をも含む広い意味範囲を本来持っており、修飾語が無いデフォルトでは特に ちち/はは を表す、と考えても結果は同じだ。

そういえばタイ語で、上の 伯/叔 と同じような現象に出くわした。

手元のタイ語-日本語辞書やタイ語会話集などには

เขย 親族の婿
สะใภ้ 親族の嫁

と書いてある。しかし、同じ辞書や会話集の用例を参照する限りではそのようには訳されておらず、たとえば、 P เขย は全て「P の婿」と訳されている:

พี่เขย 実姉の婿
(ただし、 พี่ は狭義で「実兄または実姉」の意味。だから、機械的に P の婿という訳を適用すると「{実兄または実姉} の婿」となるが、実兄は婿をとらない。)

という具合だ。けっして「親族の婿の {実兄または実姉}」とは訳されていない

タイ語の語順は 被修飾語+修飾語 なので、 P เขย をいきなり「P の婿」と訳すのは正しいにしろ納得しがたいものがある。

実は、ここに、上述の 伯/叔 と似たプロセスがあると思われる:指し示したい (義理の) 縁者 X をいったん X の配偶者 (この人には血縁関係を表す語 P が狭義で既にある) と同一視した後、「P の婿」「P の嫁」という形で属性を付加し細分化して提示する。そういうめんどくさい修飾語なのだ。あるいは、血縁関係を表す語 P は(特に、その配偶者 X を直接あらわす語がない場合には)広い意味範囲を本来持っており、修飾語が無いデフォルトでは特に血縁関係のある方を表す、と考えても結果は同じだ。

[余談:タイで地元の先生に習った時、この点はとても混乱した。先生の説明ではこれらの単語の意味は「義理の P」 (P เขย が「妻の P」、 P สะใภ้ が「夫の P」) だった。先生とのコミュニケーションが英語とタイ語の併用だったから、ちゃんと説明されたのに誤解したという可能性もなきにしもあらず。でも、その意味だとすると辞書の用例の訳とくい違うと、ちゃんと質問したんだけど。おそらく、英語話者向けにアレンジされた教材と教育方式だったから、説明や訳語が相当歪んでいたというのが真相だろう。それとも、チェンマイ方言ではそういう意味なのか?]

男女を区別しない พี่ をイメージしながら、まとめよう。 พี่ (広義) を細分化する際、タイ語ではインドネシア語流の

m. 男の
f. 女の

という2分割は採用せず、

m1. 男の(血縁関係のある場合に用いる)
m2. 男の(血縁関係のある女との婚姻によって関係の生じた場合に用いる)
f1. 女の(血縁関係のある場合に用いる)
f2. 女の(血縁関係のある男との婚姻によって関係の生じた場合に用いる)

という4分割にした、ということ。

ただし、義兄を広い意味では「兄」と言ってしまっても嘘にはならないのと同様、m1 で m2 (f1 で f2)を指してもいいようだが。
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