探していたのは、ある調査をしたよ、という新聞だか雑誌だかの記事で、
ネット上の匿名の情報、たとえば、Wikipedia とか 2ちゃんねる とか 個人のblog を信用するか?
というものだった。たしか、若い世代は「信用する」で年寄りは「信用しない」とかいう本当につまらない結果になっていて、「子供のころからネットの有る世代と、無かった世代にはギャップがある」とかいう本当にしょうもない考察までついていた。
---
こんな調査自体に、あんまり意味がない。「あなたは、グリーンランドの住民を信用しますか?」という調査と同レベルの抽象的すぎかつ二元論的、恣意的調査だから。(グリーンランドの方々、深い意味はないので。日本人に馴染みの薄そうなところならどこでも、ピトケアン島でも南オセチアでもいいのだが。笑)
私個人としては、ケースバイケース、としか言いようがない。
たとえば、 Wikipedia。編集の際には「出典を明記する」のが掟なので、記述されている情報が疑わしい場合には文献的に検証が可能だ。しかし、実際には検証可能性は建前に過ぎず、誤りや独自研究や出典の明記のない情報も Wikipedia 上には溢れている。私の場合は、さらにキーワードをググって外部を参照するのはもちろん、Wikipedia 内でも、他のいくつかの言語の同じ項目をチェックしてみるという作業を、日常的にやっている:ある言語版が他の言語版の翻訳に過ぎない場合もあるが、たいていの場合、記述はどこか異なるので、結果として得られる情報は多くなり、取捨選択の判断も付けやすくなる。
それから、 2ちゃんねる。「いとーさん、2ちゃんねるなんか見るんですか!!」とびっくりされたり、「2ちゃんねるを見てるようなやつはダメだ」と言われたこともあるが、見るだけでなく、書くよ。なにしろ情報は速いし、正確であることも多い。もちろん、これもケースバイケースだが。自分が匿名で、職業とか肩書きとかの何の権威の裏付けも無く、ただただ書き込んで、その情報の内容だけで「分かる人」には評価され、「感謝」と書き込まれたりする。これは、相当嬉しいものだ。
いろんな情報源を見る。そして、書かれている内容をうのみにしないで取捨選択して、良いものはゲット。そんなのは最近は、あたりまえだと思っていた。
ところが。
---
ttp://www.wasedajuku.com/wasemaga/shiboriyusyo/2009/03/post_10.html (リンク先に link count をたとえ無限小でもさしあげたくないので、テキスト形式) は、ある予備校講師のブログのようだ。あー、こんな化石のようなことを言う人がまだ居たのね:
大学の AO 入試などではネットで調べた情報は使わない。とくに、Wikipedia を使ってはいけない。新聞や、大学の先生の書いた本を使うべき。
受験生に対するこのアドバイスを善意に解釈すると、「大学のお年寄りの教授の方々には、ネットなんかに信頼できる情報はこれっぽっちもないと思っている方がまだ居られるから、そのコンプレックスには触らないほうが、受験テクニックとしては上等だ」となる。もしもそういう意図で言っているのなら、それはそうかも。:)
でも、この予備校講師、本気でこう思ってる気配が漂ってる。いやだな、私はこんな人には、絶対にお金を払って習いたくない。権威主義、事大主義は大嫌い。
あ、そうか。この予備校講師のブログは、新聞とか本じゃなくてネット上の情報だから、もともと信頼できないんだったね。なら、どうでもいいや。(笑)
---
私の blog には、たとえば、「潜水士」の過去問と模範解答なんぞが、コンテンツとして既に存在している。ネット上の(ほぼ)匿名の情報源の1つだ。
これを使う、使わないは、完全に閲覧者の自由。もう存在してしまっているので、逆に、解答の正確さには自信がある。(だって、間違っていたら、間違いを発見した人が、誰でも匿名で指摘できる状態になっているのだから。みなさん、ありがとうございます!!)
本しか信用しないというのなら、「潜水士」の場合は、標準テキスト以外には、私の知る限りで問題集・参考書は3種類しかないのでそちらへどうぞ、と言うしかない。本の場合は間違いがあったって、次の改訂版が出るまでは知らんぷりだから、誤り訂正能力ではネットの明らかな勝ち。まあ、だから、逆に、本を出すってのは間違いがあっちゃいけないから大変な作業なわけなんだけど。(ちなみに私は、昔、本を出したことがあります。。。)
聞いた話では、一度も水に潜ったことがない多数の人が、過去問と模範解答を見て、「潜水士」を取っているとか。よろしいんじゃないでしょうか。受験料や交通費で試験センター関係方面への経済効果はあるわけだし、本人も達成感とか、何かがあるわけだし。
---
で、ある予備校をけなしたついでに、もう1つ追加。
通信教育大手の Z 社のホームページ。(けったくそ悪くて見る気がしないので、 URL も書かないし、現在の内容を確認しないで書くが、少なくともかつては)「求人情報」のコーナーでこんな内容を書いていた:
資格を無目的に多く持った人材は当社には不要です。必要な資格だけを持ったプロを求めます。
あー、教育産業の人が、それを言っては終わりではないのか。たとえば大学だって、「資格」と言ってしまえば資格だし、無目的といえば無目的。親が行けと言ったから行った、会社が取れと言ったから取った、は「無目的」にあたるのではないのか。でも、それをとる過程で何か得るものがあり、結果として「大卒」とか「資格」とかになるのではないかな?だから、「無目的」かどうかは本来、判定ができないものだ。何かを身につけたい、自分を向上させたいと思って勉強する、で、結果が「資格」になる。(ま、原因と結果は逆の方が一般的かな。外部から見た現象としては、同じことが起こってるに過ぎないが。)
それを繰り返す人のどこが悪いの? Z 社さん。たくさん持たれたら、必要か不要かを独自に判断できないから、資格に必要以上に権威を感じて事大してるだけじゃないの?
生活に必要な最小限の資格しか持っていてはいけないの?一度、食うために資格を取ったら、転職しちゃいけないの?そもそも、生きているということに「目的」は必要?
と、深い禅問答になってしまい、私のかなり歪んだ社会観がバレるから、もうこの話題はこれで終わり。もうしません。封印。(今日も泣き笑)
関連ページをYahoo!検索←この記事へのリンクを含むページを表示
Comments 0
コメントを投稿